マンガと植物と盗み聞き

休みにしていることや考えたことを振り返りつつ紹介しています。マンガを読んだり,盗み聞きしたり、

毎年去年の今頃は,こうなることを予想していなかったの連続

たまに一年前の自分は今の状態を予期していたかと振り返ることがある。今日は一人での車移動が長かったのでそんな振り返りをしていた。

 

 

結婚することになった。これが一番の変化だろう。それだけでも去年より数倍幸せである。お金のこととか転勤ののととか不確定要素が多いから心配な面もある。けれども仕事がなくなるわけではない。蓄えも多少はある。だから大丈夫。仕事が楽しい。やりたいことができる。これもいい変化である。打てば響くことばかりである。これも嬉しい。

変わったことの多くはいい変化だ。悪い変化は今の所ない。結婚を気に多少は親孝行的なこともできたし人間関係の面でもよくなっていることが多い。いい変化は少ないけれど大きいものばかりだ。

 

 

逆に悪いことは変わらないこと。

これは仕事をし出してからずっとそうなのだけれど何のために働いているのか,生きているのかよくわからない。学生時代は就職して安心したいとか経済的に安定したいことが念頭にあった。けれど自分なりにそれを達成すると次はどこへ向かえばいいのかよくわからなくなっていた。最初の数年は幸運にも周囲が世のため人のために頑張っていたのでその雰囲気にいい意味で飲み込まれて一生懸命頑張れた。少しは成果も出た。問題はその後だ。やる気のない環境下に身を置いて気づいてしまった。「あ,自分本来やる気をもってがんばるタイプじゃなかったわ。」そういうこと。

がんばりたくない。もちろん,直ちにがんばることをやめるわけではない。むしろがんばる。がんばらないとそのツケをあとで払わされるから。がんばり方はなんとなくわかるし,そこまで苦ではないから。けれどなんのためなんだろう。指導的立場になるため,大学で教えるため,海外で働くため,そうなったら幸せなのだろうか。きっと楽しいのだろう。でも幸せなのだろうか。ずっとそう思いながらもがんばるのだろうな。最近は今まで一番働くのが楽しい。

 

 

いずれにしても去年の今頃,こうなっていることを予想してはいなかった。毎年そうだ。毎年毎年意外な結末の連続だ。それだけ毎日毎日何かしらを積み上げているのだろう。正にせよ,負にせよ。来年の今頃はどうなっているのだろうか。少しでも目標が達成できているといいな。

雨の日は会えない,晴れた日は君を想うを見て

休暇に入ってマンガや映画を見る余裕ができてきました。今週は映画を3本。マンガを3本。映画はどれも興味深かった。登場人物の生き方在り方が丁寧に描かれていて,また人物を取り巻く場も丁寧に美しく描かれていました。マンガもそれなりに面白かった。

 

その中の一つ。「雨の日は会えない,晴れた日は君を想う」について。

奥さんに交通事故で先立たれた主人公が錯乱状態に陥り,社会的転落するも奥さんへの愛を追認していく話。

 

この映画のほとんどは主人公の錯乱ぶりを描いている。この描写がたまらない。始めに自動販売機の業者に自分語りをふんだんに盛り込んだクレームの手紙を出す。これをきっかけにから,この文通で新たな人間関係を育み,奥さんの死を乗り越えて行くのかなと思いきや不倫まがいのことをしたり,不倫(まがい)相手の息子の反社会的行動に加担したり,色々な物を壊したりと破滅の一途をたどっていく。

 

そんなことまでしてるのにで主人公の認識は奥さんのことを愛していなかった,奥さんの両親が気に入らないというもの。しかし,愛してなかったら,そこまで精神的に参ることはないだろう。心の表層では愛していないと認識していても物語の終盤では主人公も自分と奥さんの関係がかけがえのないものであったことに気付く。愛ってなかなか捉えづらいもの,扱いづらいものなんだなーと思った。なぜだろうと思う。主人公にも奥さんへの愛があったとして,常に愛情を表出させていることができれば幸せだったろうし,奥さんを失った悲しみが不倫や破壊という歪んだ形で表出されることもないように感じた。でもそうじゃなかった。出会い方がよくなかったから?日々の暮らしですれ違っていたから?奥さんの両親と折り合いが悪かったから?色々なことが積もり積もってあの形で愛情の裏返しとも言える行動に主人公は出たのだと思うよ。

 

物語の中で主人公に起きたことの原因は奥さん死ではなく,なんとなくズレた日常の積み重ねなのだと思った。製作者にそんな意図は無いと思うけど。

 

 

物語,人物の描き方が丁寧な映画が好きだ。この作品はここまで書いてきた物語の中で主人公に起きた出来事だけでなくその背景ある暮らしをも想像させるところが素晴らしい。

 

忘年会

  毎年大学の同期と忘年会を開いています。一年に一回集まってする近況報告とか他愛もない話の中にも色々な衝撃があります。

 

  大学を卒業した次の年から忘年会は始まっていて,その時の話題は新しい恋人ができたとか転職したとかそんなものでした。当時の僕らにとってはそれは衝撃的な内容でしたが,その何年か後にプロポーズをしたというとても大きなニュースが報じられました。

 

 

  まさかと思っていた人物の吉報に驚くやら,慌てるやらでひとしきり騒ぎました。その年は衝撃的なニュースの当たり年で,他にも道ならぬ恋の独白やらもあり大いに盛り上がりました。

 

  その後も毎年何かしらの変化が報告されました。今年も結婚の報告があり,祝賀ムードの忘年会でした。

 

 

  学生や働き始めた頃,今よりもう少し若い時代が過ぎて,転職とか転勤とか恋愛とか結婚とか不可逆な変化が僕らを待っていて,その決断を迫られる時代になったのだなと思います。

 

 

 なんとなく青春という頃が終わりつつあるとは思っていましたが,気がつけば完全に終わっていました。その変化がうれしくも誇らしくもあったり,少し怖くて不安だったりもします。久しぶりに時計が深夜を指すのを見ました。

わかりやすいってなんなの?

よくあの人の話はわかりやすい,わかりづらいとかいうけれど何が違うのか悩むところだよねって話です。そして,今回はわかりやすさをテーマにしてますが本ブログの記事は推敲なしで思いつきをその場で書いているのでわかりづらい文章だと自負しております。

 

昨日は大学の同窓会でした。色々な立場・年代の方のお話を聞きましたがやはり重要なポストであるとかベテランである人の話はわかりやすいと感じました。その一方で若い人の話はわかるけどまとまりがないというか,わかりづらい(自分も含めて)。

 

 

帰りにそんなことを考えながらクルマに揺られて帰っていったわけですが,それが目覚めてもまだ頭に残っていました。せっかくならあの人の話はわかりやすいって言われたい。

 

 

 

わかりやすい人とわかりづらい人の違いについて考えました。そこで思ったわかりやすい人とわかりづらい人のイメージ違いは

 

わかりやすい人のイメージ

・えらい人

・ベテラン

・考えがしっかりしている。

 

わかりづらい人のイメージ

・優しそう

・若手

・自分以外の意見に振り回されている。

 

このあたりです。ここから僕が改めて気付いたことはわかりやすい人って言いたいことと結論への道筋が決まっている人だということでした。結論が決まっていればその理由と根拠を持ってくることができます。理由と根拠がしっかりしていれば話の筋が通ってわかりやすいってな具合。もしも,結論がない,理由や根拠が曖昧だったら話の流れがめちゃくちゃになってわかりづらいです。そのあたりかなって改めて当たり前だけど気付きました。これからは気をつけようっと。

 

 

わかりやすいってたぶん,そういうこと。

言いたいこととそこまでの道筋が予め通っていて話される話のことなんだと思います。

 

 

しかし,結論(主張)と理由と根拠がセットであってわかりやすいけれど話が面白いかは別であるということもあります。わかりやすいけど面白くないというパターンは同じことしか言わない何度も同じ話をするということです。

 

 

きっと初めは受けたのでしょう,その話。そして受けるくらいだからわかりやすい。鉄板ネタになってさらに磨きがかかってその後数回は受けたのでしょう。でもあんまり何度もすると飽きられます。あの人いつも酔うとあの話だよね的な。これは要注意です。

 

 

しかし,ここには話がわかりやすくなる手段が隠されています。それは何度も同じ話をすることです。そして,「その話知ってる。」と言われることです。他者から知ってるって言われるってことは伝わってると言えます。もし,伝わってなかったら知らないなんて言われることはないでしょう。

 

 

細かい理論立てとか文章構造とかを考えなくても知ってるって言われる話は伝わってるって言えます。蛇足になりましたが,同じ話を頭の中で何度も話したり,実際に話したり,書いたりすればわかりやすい話ができる人になれるのかなぁ。

なぜ,オーキド博士は少年たちにポケモン図鑑を作らせているのか。

 ポケモンばかりしています。職場でもポケモンが流行っています。僕はポケモン初代の世代でポケモングリーンを小学生の時夢中になってやっていました。最近,バーチャルコンソールで配信された初代ポケモンももちろんグリーンでプレイしました。

 

 

 そんなポケモン好きな僕ですが,1つの疑問があります。それは,なぜ,オーキド博士は少年たちにポケモン図鑑を渡したのかということです。ポケモン図鑑とは,その名の通りポケモンの図鑑で電子手帳のような形をしています。そして,ポケモンを捕まえるとそのデータが自動で登録される仕組みになっています。

 

 ここで疑問。自動で登録される情報があるってことは,もう十分にポケモンのデータ取れてるじゃん。それなのにどうして捕まえなきゃいけないの?データが登録されていたり,分布まで表示されるのにどうしてポケモンを捕まえないとならないのか。

 

 

 しかも,その図鑑は少なくとも2つ存在する。そして,それぞれのシリーズでそれぞれの主人公に図鑑が渡されていることから量産されている制品であるということも考えられます。謎は深まるばかりです。

 

 

しかし,別の見方をするとこの疑問を解消することができました。それは,植生調査のようなものだということ。植物でないから植生ではないですが,どこにどんなポケモンがいるか調査しているのではないでしょうか。

 

 

実際にこういったことは何年かに一回は国や都道府県など,またそこから委託を受けた団体などが行なっています。その結果を環境保全にやくだてることになっています。僕もボランティアでそんなことのお手伝いをすることもあります。

 

 

 

僕の場合は植物の調査をボランティアでお手伝いしているのですが,ポケモンのように山野を歩き回り対象種が見つかるまで探します。見つかっても他にも分布域がないか探します。ポケモンもおそらくそんなフロラ調査と呼ばれる研究に近いのかもしれません。

 

 

 

これには人手が必要です。色々なところに行って調査をしてレポートを書く。ポケモンのセーブ昨日もレポートでしたね。そのためには1人の優秀な研究者だけでなくそれを下支えする調査員が必要。ポケモンの主人公たちはその一翼を担っているのかもしれません。

 

 

 

全く関係ないですが,なぜ目指せポケモンマスターなのでしょうか。せっかくならドクターを目指せばいいのに。実務家ならマスターでも十分意識高いとは思いますが。

 

 

 

地面の硬さ

  僕はよく歩くのが好きな方です。時間のある時は1時間くらいウォーキングしたり,山登りしたり,一駅あえて歩いたりということを好んでします。足にかかる負荷や万歩計の数字は僕に達成感を与えてくれます。

 

 

 

  昨日は20キロくらい歩きました。山を10以上越えるバードなコースでした。山登りにいったからです。最近は平日に運動しなくなっていることもあって足が棒になりました。蜂にも刺されたし,雨も降るし,思ったよりも道のりが長いし,色々大変でした。

 

 

 

  しかも,さらに悪いことに下山口を間違えてしまったのです。登って来た所まで山に並行して伸びる道路を引き返さなくてはなりません。これがキツかった。硬い道路というのは山道以上に足にくる。疲れもあるかもしれませんが傾斜のある山道の方が随分と楽に感じました。アスファルトの上は歩いているだけでふくらはぎや足の裏が痛んで来ます。同じくらいの距離を山で歩いた時よりもはるかに足が痛い。

 

 

 

  硬い地面というのは足にかなり負担をかけているのではないかと感じました。歩いたりと走ったりするなら土の上の方がいいななんて思っています。たぶんただの思い違いなんだろうけど。そんなことを思うと今日もまた山に行きたい気持ちが出て来てしまいます。トレイルランとかもしてみたくなりましま。

 

趣味や仕事で論文を書く人たち。研究者に聞く山岳信仰の神さまって何なの?

 僕の上司なんかがそうなんですが,歴史好きが高じて趣味で論文を執筆しています。お地蔵さんや民間信仰なんかについて研究しているようなんですが,楽しそうです。この他,僕の趣味である山野草も植生調査を行って学会なんかに参加している人もいます。

 

 田舎に住みながら趣味や仕事として研究をして論文まで書いているというのはかっこいいなって思います。今日は郷土の歴史を研究されている方に山岳信仰についてインタビューすることができたのでそのまとめを。

 

 

 

水神さん,お地蔵さん,お山の神さん

「神さま」と「神さん」

 神さまってよく言いますよね。でも,僕の地元ではお水神さんとかお地蔵さんとか言って神仏をさん付けする風習があります。

 

 これは全国的にある傾向だと思います。八百万の神というくらいだから,日本にはたくさんの神さまがいる中で,神さまと神さんにはどのような違いがあるのだろうかということが今回の疑問の出発点です。

 

 神さんと呼ばれるに至る逸話がある説や神様は女性で「カミさん」である説など考えてみるといくつか仮説があったのですが,わからん。

 

 

 そこで,思い立って地元の民族資料館に電凸してみることに。

 

…そしたら,なんと話を聞かせてくることに!これはラッキーってことで早起きして休日なのにスーツを着て出かけて行きました。

 

 そして,館長じきじきにお話ししてくださいました。これがなんと,この館長さん,数年前に民間信仰について論文をお書きになったそうで神さまと神さんの違いについて専門家からお話しを聞くことができました。

 

 

 

神社にはランクがある。

 では,どうして神さまと神さんがいるのか,それは神という存在の捉え方と神社の格,つまりランクが関係しているとのこと。

 

八百万の神

 日本には神様がたくさんいるそうです。よくいう八百万の神というもの。これは,どちらかというと原始的な考え方で世界各地で見られる様です。日本もその例の1つです。

 

 では,なぜ日本ではその原始的な神様観が残ったのかについて。

理由は2つ。1つは,狩猟採集民族であったことの名残。もう1つは島国であったこと。狩猟や採集をすることは自然を相手にすることであるから,人々は自然現象全てを崇め,豊作を祈ったとのこと。また,島国であることから他地域の宗教が入りづらかったことも考えられるということも聞きました。このような背景から日本には原始的な神様観が残ったとのことです。

 

 

近代社格制度

 たくさんの神様がいる中,えらい神様とそうでない神さんがいるの?ってことが気になります。そこには神様自体の序列ではなく,神社のランクが関係しているとのこと。神社のランクって何?ってことになると話は江戸・明治時代にさかのぼるそうです。江戸時代はお寺の力が強かったそうです。それはお寺が檀家制度を司っていたから。

 

 檀家制度というと現在では葬祭供養をお寺に任せる制度であると捉えられることが多いですが,当時は檀家制度に戸籍制度の意味合いがあったようです。

 

 檀家制度があるものだから人々は檀家から抜けて勝手に移住することができないだけでなく,何かあるとお寺からは檀家から外されるというリスクを背負います。そこで人々はお寺にお布施を支払うなどしていました。

 

 これが明治時代になると廃仏棄釈や神仏分離などの動きによってお寺の力が弱まって行ってしまったり,神社とお寺が区別されて行きました。そんな中で太政官布告により神社が等級化されて行きました。

 

ランクは低いが親しい仲

 等級化された中でも伊勢神宮などの神社は格式が高く,県社と言われるような各県地域を代表する神社なんかもあったそうです。そして,中にはランク外とされる無格社なるもの存在したとのこと。

 

 ランク外で格がないというと寂しいですが,それは裏を返せば地元にある普段使いの神社となるようです。そんな地元の近所の神社に住まう神様が神さんと呼ばれ親しまれたことで神さんという言い方が残ったということでした。 

 

テングになったり,カイコになったり

時代によって変わる願い

 さて,神さんという言い方は昔の人が地元の神様に対して親しみを込めての使ったものということがわかりましたが,さらにこんなことも。ある地域の山は何万年も前から山の神さんとして信仰の対象とされてきたのですが,その時々で神さんの姿形は変わらしいです。

 

 なぜなら,人々の長いが変わるから。例えば,狩猟の時代では山の神は女性で山姥とされて,男性は狩猟の際に必ず山で放尿しなければならないという言い伝えがあったり,養蚕が盛んな時代はカイコの神さんとして崇められたり,現在では修験の信仰と関わって天狗の姿をしてお札に描かれたりということもあります。

 

 人の願いによって姿を変えるなんて興味深いと思いました。人って自分勝手だと思いながら,それでもどの時代も同じ山を別の願いから信仰する不思議さも感じました。やはり,何か人を惹きつける霊的なものもあるのでしょうか。ないのでしょうか。興味は尽きません。

 

  

 90分間で聞きたいこともあってなかなか話が脱線できない中,たくさんのこぼれ話も聞くことができてとても楽しかったです。しかも,お土産に地誌や石仏図鑑や各種論文なども貸していただきました。

 

 

 ペラペラ眺めているとこれがまた面白い。地元の祭りや伝説などなど土着的な文化の話が様々な観点からまとめられていたり,地形や環境,動植物の様子なども載っていたりします。図書館に他の市町村の地誌もあるとの話なのでまた近いうちに調べ物にもでも行きたいです。この冬は,地域研究が楽しみになりそう。